2018年05月24日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ52 百人隊長のしもべをの中風をいやす。(マタイの福音書8章5節〜13節)





 イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、(マタイの福音書8章5節)
 言った。「主よ。わたしのしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」(6節)
 イエスは彼に言われた。「行って直してあげよう。」(7節)
 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは治ります。(8節)
 と申しますのは、私の権威の下にあるものですが、私自身の下にも兵士がいまして、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」(9節)
 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(10節)


 イエスが、山から降りてきて、神の権威を行使される場面です。二つ目の奇跡は、中風のいやしです。
 この場面は、いくつかの点に着目しなければならないと思います。イエスに癒しを願っているのが、病気の当人ではないこと。癒しを申し出たのがローマ軍の百人隊長で、ユダヤ教の信者ではないこと。癒しは、一種の遠隔操作で、言葉を持って行われたこと。

 この奇跡の意味は、「真実な信仰とは何か」を語っていると思います。
 イエスは、この百人隊長の信仰を、「イスラエルのうちのだれにも、見たことのないほどの信仰」とほめています。ローマの軍人が、イエスのまとっている「神の権威」を認めているからです。
 百人隊長は、それなりに権威と権力がありました。彼の言うことを部下が聞くのは、彼の力ではなく、彼がローマ帝国の権威を行使できたからだと、彼は、自分の力の由来を知っていました。同様に、イエスはもっと大きな権威をお持ちだと分かったのです。
 もし、神がその権威を行使されるなら、当然、神の領域の奇跡だって行われるわけです。医師は、不治の病である中風をいやせなくても、神がそのおつもりならいやしていただける。百人隊長は、まず、このような神の「権威」に信頼していたのです。

 彼は、神の権威の前に、ひざまずくことも知っていました。ローマの軍人なのだから、人をやってイエスを迎えに行かせることもできたのに、わざわざ出向いてきたのです。
 「行って直してあげよう」と言われるイエスに、「それには及びません。私の家にあなたをお迎えする資格は、自分にはない」と辞退します。これは、非常に謙遜な態度です。
 彼は、イエスに、お言葉をくださいと願うのです。

 
★★


 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(11節)
しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(12節)
 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ。行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」 すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(13節)
 

 百人隊長のしもべは、イエスから「癒されるように」との言葉をいただいたちょうどその時、いやされるのです。
 
 ここでイエス様は、信仰にも、「質」が問われると仰せなのでしょうか。
 この時代、ユダヤの人びとにとって、ユダヤ教の神を信じることは、当然のことだったでしょう。しかし、その信仰はこまかい多くの律法を守ること、伝統的な宗教指導者に従うことでまっとうされると思われていたのではないでしょうか。人々は、イエスの説教に、驚きながらも、いささか半信半疑の態度で見ていたのかもしれません。イエスが、明らかに、律法に新しい解釈を施したりしているように見えたからです。

 百人隊長は、ユダヤ人のような先入観なしに、ただイエスにすがるためにやってきたのです。
 本物の信仰とは、その意味で、既成の宗教的権威や世俗の権威を離れて、神の権威を見抜くのが前提かと思われます。









posted by さとうまさこ at 11:42| 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする