2019年11月21日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ576 ペテロ、議会で演説する(使徒の働き4章1節〜14節)



 ペテロとヨハネが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちが二人のところにやって来た。(使徒の働き4章1節)
 彼らは二人が民を教え、イエスを例に死者の中からの復活を宣べ伝えていることにいら立ち、(2節)
 ふたりに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。(3節)
 しかし、話を聞いた人々のうち、大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった。(4節)

 ペテロの二度目の説教も、大勢の人々の心を動かしました。これはユダヤ教指導者の人たちにとっては、見過ごせないことでした。
 とりわけ、彼らは「復活」ということばに神経をとがらせたのです。というのも、サドカイ人達は、死者の復活はないという立場にいたからです。サンヘドリン(ユダヤの議会)では、上流社会に属するサドカイ派が多数だったのです。
 彼らはペテロとヨハネをとらえて、留置してしまいます。しかし、時すでに遅く、大勢の人々が信じてその数が五千人にもなっていたのです。



 翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。(5節)
 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。(6節)
 彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と訊問した。(7節)

 翌日、二人に対する審問が行われました。彼らにとって、神について語るのは、ユダヤ教社会で、すでに権威をもっている自分たちのようなエリートであるべきでした。

 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。(8節)
 私たちがきょう取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒されたのかということのためなら、(9節)
 皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。(10節)

 この審問は、日本のことわざでいう「やぶへび」になってしまいました。ペテロとヨハネは、自分たちに権威があるなどとは一言も言いません。足なえの人を癒したのは、ナザレ人イエスであると言明するのです。そのイエスは、十字架につけて殺されたけれども、神が復活させられた神であるからです。
 イエス・キリストが、その人を癒されたのである。なぜか、分かりますかとペテロは続けます。

 「あなたがたが家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった」というのは、この方のことです。(11節)

 自分たちこそ家を建てていると自負している者たちが、正しく行っているとは限らないですね。ユダヤ教の指導者たちは、自分たちこそ権威と権力があると思いこみ、自分たちの立場が侵される危機感から、イエスを十字架につけてしまいました。これは、人が犯しやすい過ちですが、時に、そのような保身による選別は、決定的な過ちになっているのです。あろうことか、彼らは、「神の国」が待ち望んでいた救い主を殺してしまったのです。

 この方以外には、だれの名によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(12節)
 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また、二人が無学な不通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(13節)
 そして、癒された人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。(14節)

 ユダヤ人指導者たちは、ペテロとヨハネが大胆に堂々と語ることばと態度に圧倒されたのです。ガリラヤの漁師に過ぎない無学な二人が、たとえを使ってイエスを証しし、自分たちを非難するのにすっかり度肝を抜かれたのに違いありません。
 何と言っても、いやされた人が、二人とともにいたので、返すことばがなかったと言うのです。







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2019年11月20日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ575 ペテロの説教2―b(使徒の働き3章21節〜26節)



 イエスが復活して昇天されたことは、弟子たち以外は目撃しなかったことなのです。人々は、イエスを失った弟子たちをみじめな集団と見ていたでしょう。ところが、その弟子たちに聖霊が降臨され、弟子たちはイエスに従っていたとき以上に力強く生まれ変わったのです。信じられないような奇蹟を行い、神のことばを宣べ伝えます。
 イエスが、天にお帰りになった理由を、ペテロは宣べ伝えています。

 このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません(使徒の働き3章21節)

 万物が改まる時、イエスは再臨されるのです。それは、ペテロの想像による論理ではなく、聖書に根拠があるのです。

 モーセはこう言いました。「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者を起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。(22節)
 その預言者に聞き従わない者はだれでも、自分の民から断ちきられる。」(23節)
 また、サムエルをはじめ、彼に続いて語った預言者たちもみな、今の時について告げ知らせました。(24節)

 モーセがイスラエルの人々に与えた律法がユダヤの人々の信仰を形作っていたと言っても過言ではないのです。そのモーセをはじめ、大預言者サムエルもほかの預言者たちもみな、救い主が遣わされる時について預言をしているのです。



 あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに「あなたがたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる」と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。(25節)

 イスラエルの人々は、自分たちのアイデンティティの根拠を神との契約に置いていました。神がアブラハムに現れて、「「あなたがたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる」と言われたその言葉は、彼らにとって、ただの民族的存続を超えた大きな希望だったはずです。
 国を失っている時代の方がはるかに長いイスラエルの人々が、今日も様々な分野で異彩を放っているのは、だれもが認めるところです。
 その原動力は、神からの契約であり、「神の選びの民」という約束がもたらしたのではないでしょうか。
  
 神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。」(26節)

 神からの特別なお取り扱いを受ける民には、責任もあります。何よりも、悔い改めて悪から立ち返らなければなりません。しかし、神に立ち返れば、祝福にはいることができるのです。

 ペテロの二度目の説教は、また人々に、大きな希望を与えるものだったのではないでしょうか。







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2019年11月19日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ574 ペテロの説教2(使徒の働き3章12節〜29節)



 これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん。どうしてこんなことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。(使徒の働き3章12節)
 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました.あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。(13節)
 あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、(14節)
 いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。(15節)

 足なえの物乞いが歩いたことに驚いている人々に向かってペテロは、再び演説(説教)を始めました。それは、人々の度肝を抜くような衝撃的な事実でした。
 足なえを癒したのは、十字架につけられたイエスであると宣言したのです。イエスは、アブラハム、イサク、ヤコブの神が天から遣わして下さった神であったのに、イスラエル人は十字架につけてしまったと非難しました。
 同時に、神はイエスを死からよみがえらせたのです。自分たちはそれを見たと言ったのです。

 このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人をみなさんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(16節)



 イエスがどのような方であるかについては、この時のイスラエル人の理解は、現在の日本人より、はるかに容易だったのではないかと思います。少なくとも、彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神を信じていました。自分たちを神の選びの民だと自負していました。預言者も救い主も、神の派遣してくださる者だと考えていたでしょう。
 一方、彼らはイエスに熱狂した後、失望して、イエスを捨ててしまいました。簡単に捕まり、十字架から降りて来ないイエスを、救い主ではなかったと思ったからです。
 しかし、ペテロはイエスが、アブラハム、イサク、ヤコブの神から栄光を受けた救い主だと宣言しました。その理由として、イエスが復活したこと、自分たちが、イエス復活の証人であることを告げたのです。ですが、ペテロの説教は、聴衆を痛めつけることではありません。彼らが、イエスを十字架につけたのは、「無知のためである」と理解を示し、それは、キリストの受難を実現する神のご計画の一環だったとさえ、説明します。
 
 さて兄弟たち。あなたがたが自分の指導者たちと同様に、無知のためにあなたがたのような行いをしたことを、私は知っています。(17節)
 しかし、神はすべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。(18節)
 ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪は拭い去られます。(19節)

 間違いがあっても、悔い改めに機会が与えられているのです。だから、悔い改めて「主に立ち返る」ことを勧めています。ペテロは、人々に希望を与えています。

 そうして、主の御前からの回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わして下さいます。(20節)

 イエスがこの世界を回復させてくださることまで、ペテロにはすでに分かっていました。これは驚くべきことですが、続きは明日。





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2019年11月18日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ573 美しの門での奇蹟(使徒の働き3章1節〜12節)



 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。(使徒の働き3章1節)
 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれてきた。この人は宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。(2節)
 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。(3節)
 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。(4節)
 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。(5節)
 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にある者をあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6節)
 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、(7節)
 躍り上がって立ち、歩き出した。そして歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。(8節)
 人々はみな、彼が歩きながら神を讃美しているのを見た。(9節)
 そして、それが美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、物も言えないほど驚いた。(10節)

 この箇所を読んだ人は、だれでも衝撃を受けるのではないでしょうか、とても、シンプルで、それでいて、視覚的にくっきりと見える場面です。
 たとえば、(イエス様の奇跡に疑いを差し挟むのではありませんが、)五千人の給食の場面では、読者は、もう少し具体的なデテールを見たいと思うでしょう。後から後から、籠の中のパンや魚が出てくるなんて、一体どうなっているのだろうと思うわけです。籠の底から、キノコのようにパンや魚が生え出てくるのだろうか、とか、マジックのタネを考えているような気持にさせられるのです。事実、シルクハットから鳩やウサギが出てくるマジックは、決して人を飽きさせないのです。もちろん、イエスの五千人の給食は、マジックではないのです。だからこそ、ふしぎは本物のふしぎであり、しるしですね。

 美しの門のところで、ペテロとヨハネは、物ごいがすわっているのを見ました。彼は通る人だれにでも施しを求めていたのでしょう。むかしのお芝居に出てくるように、「右や左のだんな様。憐んでください。一銭(?)恵んでください」と頼んだのかもしれません。
 ペテロたちと、この物ごいの目が合ったので、ペテロは返事をしました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」
 これだけでも、名セリフですね。私たちは、生きるためのすべてを金銭に換算する習慣が、身についています。「金銀以上の『私にあるもの』を与える」と、なかなか言えないものです。でも、ペテロは自信を持って言います。
「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
 もちろん、ペテロは何もしなかったのではありません。
 物乞いの右手を取って、立ち上がらせたのです。すると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなったのです。彼は躍り上がって立ち、歩き出したのです。



 もちろん、これほど単純な話でも、いまこれを読む私たちは、信仰が必要です。子なる神イエスの御名には力があり、父なる神は全知全能の神であるゆえに、お出来にならないことはないと信じる信仰です。
 私たちは、理知的に考えるでしょう。仮にイエスの名前で身体を癒したとしても、何十年も歩かなかった人が歩くためには、リハビリが必要だ。即座に、飛んだり跳ねたりできるはずがない。

 しかし、もし、私たちがその場に居合わせてその光景を見たなら、その事実は、衝撃以外の何ものでもないでしょう。聖書は、その衝撃を次のように記録しています。

 この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、ソロモンの回廊と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄ってきた。(11節)
 これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん。どうしてこんなことに驚いているのですか。如何して、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。(12節)

 このペテロの答えは、すべてのイエスを信じる人たちの模範ですね。たしかにペテロが手を取って、足なえの人を立たせたのです。でも、それは、ペテロの力や敬虔さによるのではないと明言しているのです。




 

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2019年11月17日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ572 教会の誕生(使徒の働き2章42節〜47節)




 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒の働き2章42節)

 彼らとは、イエスの復活を見ることができた最初の弟子たちと、ペンテコステの日に新たに信者になった人たちすべてですね。その中で使徒たちは、指導的な立場を受け持っているのが分かります。使徒たちは、イエスの教えを直接聞いた者として、イエスの言われたことを「教え」たのです。交わりは、同じ主にある者の連帯の具体的な愛の交流です。パンを裂いて分け合うのは、その具体的な現れです。食べ物を分けあう意味は、もちろん大きいのです。しかし、もっと大切なのは、イエスが過ぎ越しの食事の席で、パンを裂いて弟子たちにお与えになった命令の再現です。
 イエスは仰せになりました。
「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」(ルカの福音書22章19節)
 

 弟子たちと信者たちの集まりは、教会の誕生でもありました。一番大切なのは、主イエスを礼拝することでした。
 ここには、今日の教会にあるすべての要素が揃っています。礼拝、学び、交わり、奉仕です。今日の教会では、これらに、伝道が加わりますが、初代教会で、信者たちの親密な関係そのものが、伝道になりました。


 
 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。(43節)

 信仰が、組織の命令やスローガンで広められるのではないことは、キリストにある人たちは、みな経験しています。
 神を恐れ、神の前に心から悔い改めて、ひれ伏すとき、ふしぎやしるしが出現するのです。苦悩や悩みを愚痴るのではなく、神に申しあげて「これを受け取ってください」とお願いする時、神が、たしかに「その荷を引き取って、担ってくださる」のを経験するのです。
 このような神の愛を経験した者のあいだでは、自然に、以下のような行動も現れたのでしょう。
 
 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、(44節)
 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。(45節)
 そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、(46節)

 これらの行為のどこにも、人からの「強制」はありません。
 神のみ力を体験した者たちの心からの賛美があるだけです。神の召しが人々を変えていくその有様は、人々に好意を持って見られたのです。

 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47節)

 それは、同時に伝道につながって行ったのです。






posted by さとうまさこ at 08:54| Comment(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする