2020年07月02日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ712 あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としてささげなさい。2(ローマ人への手紙12章9節〜21節)



 神がお喜びになる、聖なる生きたささげ物とは、どのような状態かが語られます。
 
 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(ローマ人への手紙12章9節)
 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれたものとして尊敬しあいなさい。(10節)

 なんといっても、愛ですね。キリスト教信仰の神髄は愛です。パウロはほかの場所でも言及しています。
 「愛がなくては神に喜ばれることはできません。」
 「信仰、希望、愛。その中で最も大切なものは、愛です。」

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11節)

 勤勉であること、たゆむことなく例に燃えて神に仕えること。

 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(12節)


 11節と12節は、関連していますね。苦難に耐えて、望みを持ち続けるためには、霊に燃えて主に仕えるという決意が必要です。それでこそ、ひたすら祈り続えけることができる気がします。



 神に対する熱い信仰は、具体的な愛となって現れなければ、何もなりません。

 聖徒たちの必要を共に満たし、努めて人をもてなしなさい。(13節)
 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(14節)
 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(15節)

 13節は、ほかの人の必要を満たして差し上げることです。14節は、敵対する人であっても、祝福することです。15節は、人の悲しみや喜びに心底共感し、連帯をすることです。

 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人と交わりなさい。自分を知恵ある者と考えてはいけません。(16節)
 だれに返しても悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。(17節)
 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(18節)

 16節。17節、18節は、その前の3つの注意事項に対する繰り返しですね。けっきょくのところ、愛を現しなさいという命令です。



 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。
   「復讐はわたしのもの。
   わたしが復讐する。」
 主はそう言われます。(19節)
   次のようにも書かれています。
   「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、
   渇いているなら飲ませよ。
   なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に
   燃える炭火を積むことになるからだ。」(20節)
   悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21節)

 最後は、誰にとっても抗いがたい感情――復讐に対する態度です。どんなに寛大なやさしい人でも、悪を見せつけられる時には、つい怒りにかられます。愛する者が殺されたり、決定的な罠にはめられたり、大事な者が盗まれたりすれば、だれでも復讐したくなります。しかし、神のみこころは、復讐してはならないなのです。
 神に喜ばれる、聖い、生きたささげ物になるのは、ある意味で厳しいことですね。


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2020年07月01日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ711 あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。(ローマ人の手紙ローマ人への手紙12章1節〜8節)



 私のような異邦人キリスト者が救われたのは、神の計り知れない愛あるご計画――奥義――の結果だったとパウロは言います。神は、ご自分が選び育てられたオリーブの枝を折ってまで、異邦人クリスチャンを接ぎ木してくださったのです。
 そうであるなら、私たちは神の愛にふさわしい人間にならなければいけないはずです。ということで、オリーブの木に接ぎ木していただいたクリスチャンは、どのようであるべきか、パウロは語っているのです。

 その第一が、礼拝です。礼拝が神に近づく者として一番重要であるのは、キリスト者ならだれでも知っていることです。
 問題は、ささげ物です。旧約の時代、神の前に出る時に、ささげ物は不可欠でした。レビ記には、ささげ物規定が大きなスペースを使って命じられていますが、シナイで神の民が主と契約を結ぶ前の時代でも、神に近づくとき、人はささげ物をささげたのです。
 新約の時代、イエス様が犠牲になってくださったとはいえ、とりわけ大きな犠牲を払ってくださった神様の前に出るのに、何もなしというのはあり得ないでしょう。では、何が一番よいささげ物なのか。

 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12章1節)

 私たちは、私たちのからだを、神の「喜ばれる聖なる生きたささげ物」として捧げるように勧められているのです。しかし、何が神に喜ばれるのでしょう。沐浴をして手を良く洗えばよいのでしょうか。
それもパウロは説明しています。

 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(2節)

 

 心を新たにするのは、言葉としては理解できますが、容易ではないですね。そこで、パウロは、さらに具体的に語ります。

 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思いあがってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(3節)

 これは、謙遜のすすめです。全能の神様に救われたのですから、うれしく、また万能感に満たされることもあるでしょう。その時大切なのは、思い上がりに気付くことです。というのも、教会において私たちは、あくまで、一つの小さな役割を与えられているだけなのです。パウロは、教会を一つのからだにたとえて、私たちがそれぞれがからだの器官なのだと説明します。

 一つのからだには多くの器官があり、しかもすべての器官が同じ働きをしていないように、(4節)
 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(5節)
 私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、(6節)
 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、(7節)
 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(8節)

 自分一人は、ある有機体の器官であると知るとき、確かに謙遜になりますね。どんなに丈夫な心臓でも胃袋でも、天才的な頭脳でも、オリンピックでメダルを取るような足でも、体の一部だからこそ働くことができるのですね。
 パウロは、まず自分が自分の持ち場で一所懸命働くように命じています。そういう体であってこそ、「生きた聖なるささげ物」にもなりうるというわけですね。





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2020年06月29日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ710 だれが主の心を知っているのですか。(ローマ人の手紙ローマ人への手紙11章33節〜36節)



 ああ、神の知恵と知識の富は、何と深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の富はなんと極めがたいことでしょう。(ローマ人への手紙11章33節)
   「だれが主の心を知っているのですか。
   だれが主の助言者になったのですか。(34節)
   だれがまず主に与え、
   主から報いを受けるのですか。」(35節)
 すべてのものが神から発し、神によって、神に至るのです。この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36節)

 このところ、さとうは息切れしています。パウロさんについていくのが大変、というわけではないのです。パウロさんはむしろ同じところで足踏みしているように思えるのです。彼の執拗さ、根気強さを共に体験するのが大変だと感じるのです。そんなことは多分私にはできないことだからでしょうね。もちろん、私はパウロさんほどの聖書知識――神の知恵と富を、とても読めていないのでしょうから、じつのところ、子供が高等数学の講義室にいるほどに、困り果てているのかもしれないと思うのです。

 ユダヤ人たちが、キリストを受け入れないために、神によって枝が折られて、異邦人が接ぎ木されてしまうのです。パウロは、それを残念がっています。しかし、それによってユダヤ人に妬みが起こされて、その妬みは、たぶん「本家意識」でしょうから、最終的には、すべてのユダヤ人が救われ、折られた枝は、元通りに繫がれるはずなのです。それを、パウロは、「神の知恵と富」と表現しています。神の知恵と富によって、全人類が救いに入り、神のご計画が、最善の形で結実するのです。
 私は、パウロがこの手紙を書いてから二千年ほども経つのに、まだこのことは。実現していない出来事であると思うのです。ユダヤ人もまだ救われていない人がたくさんいますし、異邦人はまして、救われていません。だからこそ、神様の知恵と知識が深いことを、パウロは強調しているのでしょうか。
 時や空間の大きさを、神様の知恵と知識によって、造り変える必要があるのですね。



 聖書の神様は、とてつもない大きな方です。すべてのすべてであられ、深さ、広さ、高さ。全知全能ですべての主権をお持ちの方であること。宇宙万物と私たちをお造りになった方、すべてを支配し、すべてを御手に握っておられる方であると、あらためて、自分に言い聞かせなければなりません。こんなときは、やはり聖書の言葉を取り出すのが、いちばんですね。
 この膨大な世界を見上げために、きょうはとりあえず、私の好きな聖書個所を紹介させてください。

   主よ。あなたは私を探り、知っておられます。(詩篇139−1節)
   あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、
   遠くから私の思いを読み取られます。(2節)
   あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
   私の道のすべてを知り抜いておられます。(3節)
   ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ。
   あなたはそのすべてを知っておられます。(4節)
   あなたは前からうしろから私を取り囲み
   御手を私の上に置かれました。(5節)
   そのような知識は私にとってあまりに不思議
   あまりに高くて、及びもつきません。(6節)

   私はどこへ行けるでしょう。
   あなたの御霊から離れて。
   どこへ逃れられるでしょう。
   あなたの御前を離れて。(7節)
   たとえ私が天に上っても
   そこにあなたはおられ
   私がよみに床を設けても
   そこにあなたはおられます。(8節)
   私が暁の翼を駆って
   海の果てに住んでも(9節)
   そこでもあなたの御手が私を導き
   あなたの右の手が私を捕えます。(10節)
   たとえ私が「おお闇よ 私をおおえ。
   私の周りの光よ 夜となれ」と言っても、(11節)
   あなたにとっては 闇も暗くなく
   夜は昼のように明るいのです。
   暗闇も光も同じことです。(12節)








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2020年06月26日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ710 最初に栽培されたオリーブに注がれる神の愛(ローマ人の手紙ローマ人への手紙11章1節〜21節)



 ですから見なさい。神の栄光と厳しさを。倒れたものの上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(ローマ人への手紙11章22節)
 あの人たちももし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。(23節)
 あなたが、本来野生であるオリーブが切り取られ,元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。(24節)

 パウロはどうしても、異邦人に対するイスラエルの優位性が気になっているようです。イスラエルは、神の救いのご計画にはじめに選ばれた民族です。さらに、パウロの自負としては、パウロは「ご自分(神ご自身)の民」だったわけです。ところが、彼らは救い主を認めることができず、倒されてしまい、その後に異邦人が接ぎ木されたのです。それでも、それは永遠の定めではなく、彼らが不信仰も気づいて悔い改めるなら、また接ぎ木されるというのです。「本来栽培された枝であった」の意味は、もともと「神みずから選ばれて植え育てた」との意味です。

 
 
 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちるときが来るまでであり、(25節)

 奥義とは、「神の知恵」です。パウロは、イスラエル人が頑なになっているのは、その間に異邦人が救われて世界中に満ちるときまでである、それが神の知恵であるというのです。その後に、イスラエル人はみな救われるという預言を、イザヤも行っているのです。

 こうして、イスラエルはみな救われるのです。
   「救い出すものがシオンから現れ、
   ヤコブから不敬虔を除き去る。(26節)
   これこそ彼らと結ぶわたしの契約、
   すなわち、私が彼らの罪を取り除く時である」
 と書いてあるとおりです。(27節)
 彼らは福音に関していえば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。(28節)
 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(29節)

 イスラエル人が、それほどのあわれみを受けるのは、彼らの父祖たちのゆえなのです。というのも、神の賜物と召命が取り消されることがないと言うのです。感謝ですね。

 あなたがたは、かつて神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。(30節)
それと同じように、彼らも今は、あなた方の受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。(31節)







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2020年06月25日

Coffee Break新約聖書通読エッセイ709 接ぎ木されたオリーブと、折られた元の枝(ローマ人の手紙ローマ人への手紙11章11節〜21節)



 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルに妬みを起こさせました。(ローマ人への手紙11章11節)
 
 「彼ら」とは、ユダヤ人たちです。パウロは、聖書の救いの器として用いられたユダヤ人のことを、どうしても忘れることができません。ユダヤ人が、その本家意識から、律法主義を離れることができないだけでなく、キリスト者たちに敵対している事実は、パウロにとって不本意な状態だったのです。しかし、ユダヤ人が、ただ意味もなく倒れたなどという考え方はパウロには受け入れがたいものだったのでしょう。
 聖書をはじめから読めば、誰でもわかるように、ユダヤ人は、「救いの民としての使命」のために起こされた民族です。パリサイ派の優等生であったパウロは、当然その自負があったはずです。それで、背きと見えるユダヤ人たちを弁護しないではいられないのかなと思います。
ユダヤ人たちの背きの罪によって、救いが異邦人のほうにもたらされ、その結果、イスラエルに妬みを起こさせる。その結果・・・。

 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。(12節)

 伝道が異邦人伝道へと方向を変え、福音が世界に拡がって行ったことを、パウロは世界の富になると見ています。



 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから自分の務めを重く受け止めています。(13節)
 私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。(14節)

 パウロは、異邦人の救いによって、彼の同胞ユダヤ人たちがねたみを覚え、救われることを願うのを期待しているのです。やっぱりパウロはユダヤ人の救いにこだわっているのです。

 もし、彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、使者の中からのいのちでなくて何でしょうか。(15節)
 麦の初穂が聖なるものであれば、粉もそうなのです。根も聖なるものであれば、枝もそうなのです。(16節)
 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、(17節)
 あなたはその枝に対して誇っては行けません。たとえ、誇るとしても、あなたが値を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。(18節)

 さらに、パウロは、捨てられるはずのユダヤ人たちの功績を数え上げます。なんといっても、初穂であったイスラエル人は特別な祝福を受けているはずだというのです。初穂が聖であるなら、粉も、枝も聖であるのだから、あとから接ぎ木されたオリーブは、最初からある枝に対して誇ることはできないのです。

 するとあなたは、「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。(19節)
 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思いあがることなく、むしろ恐れなさい。(20節)

 後から接ぎ木されたオリーブである異邦人たちに、信仰によって立っているのだから、神を恐れなさいと諭しています。

 もし神が本来の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたも惜しまれないでしょう。(21節)

 このような結論が導き出される理由は、結局すべての主権は、神が握っておられるからでしょう。主は陶器師であるということを忘れないでいたいものです。








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